講演記録

2016年5月10日 中部大学民族資料博物館 学術シンポジウム
松浦晃一郎会長・講演録抄録

 「アフリカへのまなざし
・・・広大な自然と多彩な文化」

講師 皆さん、こんにちは。今日は、私が50年以上かけて集めましたアフリカのマスクや彫刻を100点余り、中部大学の民族資料博物館に寄贈させていただきました。とてもきれいに展示していただいて、プレスの方をはじめ、大勢の方のご出席の下にオープニングセレモニーができたことを非常に嬉しく思っております。中部大学皆さん方、特に飯吉理事長にお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
私自身も、50年以上かけて集めた100余りの一つ一つには非常に思い入れがあるのですが、いつも個別に買い求めていたため、全体としてまとめて見たのは今日が初めてでございます。
マスクや彫刻を眺めていると、一つ一つ購入当時のことを思い出して懐かしくなり、それをまとめて見られることは非常に嬉しく、大変感激しております。
先ほどご紹介がございましたように、55年前の1961年20代半ばの私が、最初に勤務したのが西アフリカのガーナです。実はガーナは、第二次大戦後にアフリカで最初に独立した国です。私がこれから「アフリカ」と言うときは、サハラ以南のアフリカを指しているとご理解いただきたいと思います。もし全体を指すときは、「北アフリカを含めて」と申し上げます。
いずれにしましても、サハラ以南のアフリカで第二次大戦時に独立していた国はエチオピアとリベリアの2か国でした。エチオピアは王国で、第二次大戦中にイタリアに侵略はされましたが、ずっと独立していました。リベリアは19世紀前半、アメリカのモンロー大統領のときに、リンカーン大統領の奴隷解放が行われる前でしたが、奴隷の一部を解放して西アフリカに送り込んで造られた国です。「リベリア」というのは英語の「リバティー」から来ている、「自由な国」という意味です。
第二次大戦後の独立運動は、アジアのほうが先行していましたが、アフリカでも植民地から脱却して独立するという運動が起こります。その最先端を行ったのがガーナです。特にガーナの初代の大統領であったエンクルマ大統領が音頭を取って、ガーナの独立を1957年に達成します。私がガーナに赴任したのは、その4年後の1961年です。独立してちょうど4年後でしたから、非常に独立の機運が盛り上がっている時点でした。
さらに言えば、ガーナはイギリスの植民地でした。イギリスの植民地のほうが、特に西アフリカでは先行するのですが、フランス領のアフリカもシャルル・ド・ゴール大統領時代は最初、むしろ自治権は拡大するけれども独立を与えないで、広い意味でのフランスの一部ということでアフリカの国を取り込もうとしたのですが、途中でド・ゴール大統領もそういう政策が行き詰まっているということを悟って、1960年に独立をさせます。
その前に実はギニアが独立するのですが、いずれにしても1960年にフランス領であったアフリカの国々が大挙して独立します。その結果、これらの国が大挙して国連に加盟しました。ですから1960年は、世界的に見て「アフリカの年」と言われています。現に国連で「植民地独立付与宣言」という決議も採択されています。
ですから、繰り返しになりますがこういう国が独立した直後に、私は西アフリカのガーナに赴任いたしました。当時は、アフリカに日本の大使館は3つしかありませんでした。1つは、最初に申し上げましたエチオピアです。もう1つは、イギリスの植民地で、ガーナに遅れて独立したナイジェリアです。これは大きいものですから、ナイジェリアだけを担当する大使館でした。
他方、ガーナは、ちょうど地理的に周りが全部、1960年に独立したフランス領であった国々です。名前は全部申し上げませんが、コートジボワール、ブルキナファソ(当時はオートボルタ)、それからニジェール、ベナンという、フランス領であった国に囲まれておりました。
私は20代半ばでしたが、私の口から言うのも恐縮ですが、英語とフランス語が使えたものですから、英語圏の国のみならずフランス語圏の国を、全部で10カ国担当いたしました。従って、英語の国はガーナと、リベリア、それから、イギリスの植民地から独立したシエラレオネの3カ国です。あとの7カ国は全部フランス語の国で、今申し上げた国の他に、ギニア、マリ、ベナン(当時はダホメ)という国がございます。
いずれにしても、10カ国を担当していたため、私はこれらの国々を出張、時に休暇で飛び回っておりました。その過程で、今回寄贈させていただきました、このアフリカ彫刻というものに非常に惹かれるようになりました。
アフリカの文化というと、おそらく皆さまは、アフリカの音楽をまず思い浮かべられると思います。確かにアフリカの伝統的な音楽は、日本人にとって、あるいはヨーロッパ人、アメリカ人にとって、非常に魅力のあるものです。特にアメリカの音楽(特にジャズ)は、奴隷としてアメリカに連れて行かれた人たちが、まさにアメリカで何回も代を重ねて、2代目、3代目、4代目となりながらも生かしてきたものです。
ですから、ご承知のように、現在はジャズというとアメリカというように思いますが、ジャズは、そういう国の人たちがアフリカから持っていった音楽をベースにアメリカで生まれた音楽であるということです。ですから、アフリカの文化というと、まず音楽を一般には思い浮かべます。しかしながら、私自身が非常に関心を持ったのは彫刻です。マスクであり、人物像であるわけです。
これは今朝もプレスの方々の前で申し上げましたが、アフリカ彫刻は20世紀初めのヨーロッパの絵画に大変大きな影響を与えます。フォービズム、さらにはキュービズムです。キュービズムの具体例で一番典型的な例はピカソで、彼が一番影響を受けた芸術はアフリカ彫刻です。現に彼の絵の中には、アフリカの彫刻がそのまま出てくるもの、あるいは、それをちょっともじったようなものというのが、随分たくさん出てまいります。
まさにアフリカの彫刻は、ご覧いただいた方はお気付きのように、決して写実的ではありません。むしろアフリカの方々が伝統的な儀式に活用するために作ったマスクであり、人物像であるわけですから、そういう目的に沿った形で、人間の体を強調して造られています。
さらには、日本でも縄文時代はそうだったわけですが、アフリカでは狩猟、採集中心で、いわゆる農耕というのは、ほとんどありません。そういう狩猟、採集、それから、海に近いところは漁猟ですが、やはり人間と動物、あるいは、広く言えば自然というものが一体になっています。
現在の私ども人間は、とても動物と一体というようには思えません。我々のほうが、はるかに優れた存在だというように考えがちです。私ども人間が70億を超えて地球を全般的には支配しているわけですが、さかのぼって、考えてみれば人間も多くある動物の、あるいは広く言えば生物の1つとして、動物、生物と共存していた存在です。さらに言えば、当初はむしろこういう動物たちに押されながら、細々と生きながらえていた存在であったわけです。今、力関係は全く逆転しています。
アフリカにおいては、むしろそういう時代の思い出も踏まえて、人間と動物というものが連続性を持っています。ですから、人間のほうが一段も二段も上の存在ということではなくて、動物と同じ次元で人間というものを見ています。
ですから、彫刻やマスクも、むしろ動物の体の一部を取り込んで、耳や口に人間にはない角とか牙を生えさせたりという形でマスクができたり、人物像ができているわけです。そういうアフリカの伝統というものに、私は非常に惹かれました。さらに言えば、それが持つ非常に芸術的な価値にも非常に惹かれました。
ガーナ自体にも若干はありましたが、むしろ周辺の国々、コートジボワールやマリの方が、はるかに優れた彫刻が、部族によっていろいろ凸凹はありますが、育っておりましたので、出張なり休暇で行くたびに買い求めました。
その後、今度は拠点を日本に移し、さらにユネスコ時代はパリが拠点になりますが、そういう拠点のところからアフリカに出張するたびに、気に入ったものを買い集めました。そういう意味で、50年以上にわたって買い集めた100点余りを、今回寄贈させていただいたということです。
先ほど飯吉理事長から、私のユネスコ時代の業績の1つとして、無形文化遺産条約のことに言及いただきました。
皆さん方は当然、ユネスコと言えば世界遺産条約というのを思い浮かべられると思います。世界遺産条約が対象にしているのは、文化遺産と自然遺産です。自然遺産は自然全体を対象にしているのですが、文化遺産は正確に言えば、不動産の文化遺産で、より具体的に言えば、歴史的な建造物です。ですから、日本で言えば歴史的な建物ということで、お寺、神社、さらにはお城ということになります。それから、もう1つは、歴史的な遺跡です。ですから、日本の例で言えば、平城京跡が世界遺産になっています。そういう歴史的な遺跡でございます。
そういう文化遺産と自然遺産では、今アフリカについて申し上げました、伝統的な音楽や伝統的な儀式、伝統的な踊りが対象になっていないことを、私は非常に感じました。従って、ユネスコ事務局長に当選してから一番力を入れた1つが、そういう世界遺産条約の対象になっていない無形文化遺産を対象にした条約作りです。これは日本の例で申し上げれば、能楽、文楽、歌舞伎というものを対象にした条約を作るということが、ユネスコにとって非常に大きな使命だと考えました。
私がそれを提案したとき、一番熱心に支持してくれたのはアフリカの国々です。アフリカの国々は、先ほど私が申し上げた不動産の文化遺産はゼロではありませんが、非常に少ないです。アフリカは残念ながら気候風土が厳しいです。それから、ヨーロッパのようにいろいろな歴史的な建造物を造るような石があまりありません。あるところもあるのですが、非常に限られています。
そんなこともあり、アフリカの文化の中核は、伝統的な踊りであったり、儀式であったり、音楽であるわけです。これが、いわゆる無形文化遺産です。従って、そういうものを保全して、さらには育成していく国際的な条約を作ろうというときに、アフリカの国々が一番熱心に支持してくれました。
私がそれを提案したもう一つの背景を説明します。アフリカの国は私がいた1960年代でもそうですが、その後を見ても、どうしても国づくりを中心に進めていきます。日本が明治維新の直後にそうだったように、やはり国づくりを進めていくというときは、残念ながら伝統的な文化を保全するということの優先順位が低くなります。むしろ国の経済的な基盤をしっかりするということに重点を置きがちです。
ときには、その結果として伝統的な文化を犠牲にしたり、傷付けたりということが起こり、あるいは、それを黙認するということが起こるわけです。残念ながら日本でも、明治維新直後にはそれが起こったわけですが、アフリカにおいても同様のことが起こっていました。
日本は幸い、第二次大戦後ですが、1950年に文化財保護法というものができております。これは、先ほど申し上げました不動産の文化遺産のみならず、無形の文化財をカバーしています。ただし、私は「文化遺産」というほうが好きです。先ほど申し上げたような、日本で言えば能楽、文楽、それから歌舞伎です。これはあくまで人間が作るものです。それから、アフリカで申し上げた伝統的な儀式、伝統的な踊りも、人間の祈りの一環です。ですから、人間中心です。
「無形文化財」というと、何か物のような印象を与えるので、私は残念ながら好きな言葉ではありませんので、今日の講演でも、引き続き「文化遺産」という言葉を使わせていただきます。
そういう無形の文化遺産を国際的に保全していく体制をつくるということは、同時にそれを受けて、それぞれの国で、そういう無形文化遺産を保全していく体制をつくるということも意味するわけです。
アフリカは、申し上げましたように、私が無形文化遺産条約を提案したときに真っ先に、熱心に支持をしてくれたのです。それぞれの国の独立後のタイミングに凸凹はあります。ガーナは1957年で、フランス領の国が1960年、その後、かなり遅れて独立した国も多数あります。私がユネスコの事務局長を務めていた21世紀の冒頭は、独立後40年~50年経っている国が多いのですが、それでも、今申し上げたような無形の文化遺産をしっかり保全していくという国内体制ができておりませんでした。
ですから、私はアフリカ在勤の経験があることもあって、国際的な枠組みをつくるけれども、同時に、それを踏まえて、それぞれの国で国内的な枠組みをしっかり作っていき、それを、必要となればユネスコが支援するということも考えていたわけです。
繰り返しになりますが、日本の場合は幸いにして1950年の文化財保護法で、不動産の文化遺産、それから無形の文化遺産、さらに言えば動産、これは仏像などを指しますが、そういうものもしっかり保全するような体制ができていたわけですが、アフリカではそれがなかったということです。
さらに言えば、アジアの国々は、日本と同じように、あるいは、国によっては日本から刺激を受けて日本の例を学ぶという形でありますが、有形の文化遺産と無形の文化遺産、両方を保全するという体制ができております。これは隣の韓国しかり、中国しかり、インドしかりです。
ですから、これらの国々ももちろん、私のイニシアティブを支持してくれましたが、西欧の国々は猛反対をいたしました。
まさに「世界遺産条約」とは条約名が象徴していますように、人類にとって非常に貴重な文化遺産と自然遺産を保全する体制です。そのときの文化遺産というのは、歴史的な建造物と歴史的な遺跡です。ですから、西欧の専門家、さらには西欧の政府関係者から見れば、人類にとって重要なのは不動産の文化遺産であって、無形の文化遺産というものは、それに付随するものであるという考えが一般的でした。
さらに言えば、西欧の国々は、そういう不動産の文化遺産、それから動産の文化遺産も入りますが、そういうものを保全する体制は国内的にできております。しかしながら、西欧の国は日本のように無形の文化遺産を国内的に保全していくという体制は、実はその時点でできていませんでした。
従って、西欧の専門家の意見を踏まえた政府関係者は、無形文化遺産条約を作るという私の提案に猛反対でした。私は非常に苦労するのですが、だんだん西欧の国の中でも、スペイン、フランス、イタリアなどは私の考えに賛同してくれるようになり、西欧も割れてまいりました。
そんなこともあって、私は1999年の秋にユネスコの事務局長に就任しましたが、私が推進して4年後の2003年の秋のユネスコ総会で無形文化遺産条約を採択することができました。繰り返しになりますが、アフリカに焦点を絞れば、アフリカの国々は非常に熱狂的に支持してくれて、そして彼らは急いでこの条約を批准してくれました。
同時に重要なことは、先ほど来、何度か申し上げておりますが、それぞれの国において、それぞれの国にとって重要な無形文化遺産を保全する体制をつくるということです。
私にとって嬉しかったのは、個人的にも親しくしておりましたセネガルのワッド大統領が、ぜひ自分たちの国でそういうシステムをつくるから支援してほしいということで、いろいろ支援をしてあげました。
セネガルは、日本で言えば「人間国宝」という、カテゴリはございませんでしたが、無形文化遺産を保護する国内法を作って、それに基づいて1回目の任命式を行いました。私もご招待いただき、出席いたしました。
その1回目はどういう人が対象になったかというと、1つは、伝統的な漁法で魚を捕まえる仕事です。これは、十分にご説明できませんが、セネガルは海岸線が長い国ですから、魚を捕り、食べるという慣習が食生活で重要な一部を占めています。その魚の捕まえ方について、セネガル独特の方法があるので、そういう漁師を4、5名、日本で言えば「人間国宝」に認定するということをいたしました。
同じことがセネガルの農業に関しても言えます。今は2つのグループがセネガルの無形文化遺産になっています。セネガル国内の第1号です。私も非常に嬉しく思いました。
アフリカの国々は一生懸命条約を批准しました。私も非常に鮮明に覚えていますのは、これは旧フランス領ですが、まさにアフリカの真ん中にある中央アフリカのピグミーたちの伝統的な儀式というのが登録されました。
中央アフリカのピグミーというのは先住民です。どこの国でも、残念ながら日本でもアイヌがそうですが、先住民というのは、少数民族となっています。アフリカの場合であれば、後から来たバントゥー族が主たる住民を構成しています。もちろん、バントゥー族の中にもいろいろな部族があるわけです。ピグミーというのは、先住民でも本当に少数で、だんだん数も減っています。しかしながら、ピグミーはピグミーの伝統を持っているわけです。
中央アフリカ政府はそこに目を付けて、ピグミーの伝統的な儀式をユネスコに登録を提案して、それが登録されました。それで、ぜひその披露宴を私に見てほしいということで、私は中央アフリカに参りました。
首都からだいぶ離れたところでした。まず飛行機で中央アフリカに行って、そこから地方に飛び、そして森の中に切り開いた道を車で行きました。普通、車は通れないのですが、私が行くということで、私も後から気がついてちょっと気が引けたのですが、わざわざ車が通れるぐらいの道を造ってくれました。もちろん、道を造っても舗装なんかはしていませんが、ジープが通れるギリギリの幅の道を造ってくれました。ジープで何時間も走ってピグミーの部落に行って、そこでピグミーの人たちが、マスクを付けて踊るのを拝見して、私も非常に嬉しく思ったのを覚えています。
私が今回寄贈させていただいたのは、先ほど来、申し上げているように、西アフリカのマスクや彫像が中心です。たまたま私が西アフリカにいたということもありますが、西アフリカには森があります。「アフリカ」と言われると一般の方は砂漠を想像されますが、西アフリカには森があるのです。しかし、サハラ砂漠が今、どんどん拡大しています。先ほど国の名前で申し上げたマリ、それからブルキナファソ、ニジェールというところでは、どんどん砂漠が拡大して、それがまた問題を起こしておりますが、同時に海岸地帯、先ほど触れたコートジボワール、それからギニアなどになりますと、森林地帯があります。ですから、そういう彫刻に非常に向いた材木が存在します。そして、それぞれの、いろいろな部族が伝統的な儀式というものを大事にして、そのためにマスクとか彫像を作っているわけです。
先ほど申し上げましたように、不動産の文化遺産というのは非常に少ないのですが、幸いにしていくつかあります。例えば、私が生活していましたガーナも、海岸地帯になるとサバンナになります。サバンナというのは森林と砂漠の中間で草原地帯と言っていいと思います。海岸はサバンナになるのですが、奥地のアシャンティというところは、ちょっと高地になって、森林になっています。そこのアシャンティ族の酋長の住んでいる宮殿なんかが世界遺産になっています。
もちろん、私がいたのは1960年の前半で、世界遺産条約ができたのは、その10年後の1972年です。そして、ガーナが参加したのはずっと後ですから、当時は私もそういう問題意識を持ってはいませんでしたが、アシャンティの酋長に招かれて、酋長のところを訪れたことがあります。その酋長の住宅、パレスが世界遺産になっています。
それから、私は生活したことがありませんが、何度か訪れている東アフリカのタンザニア、ケニアというところは、農耕地帯があります。特にケニアはそうです。ですから、イギリス人がどんどん植民地時代に入り込んで、農耕に携わりました。
もちろん、もともとのアフリカ人もいたわけですが、むしろ白人社会をつくりました。だからこそケニアは、最終的には独立を達成しますが、なかなか独立をさせないようにイギリスが頑張った結果、かなり血なまぐさい争いが行われました。
その奥のウガンダというのは、伝統的に王国がいくつもあり、一番の中核がブガンダ王国です。ブガンダ王国というのは、ウガンダの首都、カンパラを中心としています。このブガンダ王国は、先ほどのアシャンティと同じように、しっかりした王国で、そこの王様の住居、お墓が世界遺産になっています。これは私がユネスコ時代に見に行きました。
それから、私にとって非常に思い出になっていますのは、マリにドゴン族というのがありますが、そのドゴン族訪問です。今回寄贈させてもらった彫刻の中にはかなり、ドゴンの先祖、馬に乗ったドゴンの人たち、それから小さな馬とか、いくつか像があります。私は、彫刻的あるいは芸術的に見て、ドゴンの作は非常に優れていると思います。
実はドゴンは、マリの東のほうにあるところなのですが、世界遺産になっているところがあります。それは何かというと、ドゴンは先住民なのですが、崖の下に住んでいたときの石と土でできた住宅です。これは、今は放棄されて住んでいないのですが、そこが世界遺産になっています。
ですから、先ほど来、いくつか不動産の文化遺産で世界遺産になっている例をご披露していますが、私にとって非常に思い出になるのはドゴンの世界遺産です。これはユネスコ時代ですから、もう既に世界遺産になっておりました。見たいということで、参りました。
さらに言えば、ドゴンの彫刻が好きだったものですから、その現場を見たいということもあって行ったのですが、ちょうど私が行ったら、ユネスコ事務局長として行ったということももちろんあるのですが、ドゴンの人たちが、民族衣装を着て、ドゴンの仮面をかぶって、飛行場に着いた私を歓迎してくれました。
そして、今申し上げた、かつて彼らの先祖が住んだ崖の下の住宅、今は廃墟になっていますから、先ほどのカテゴリで言えば歴史的な遺跡ということで世界遺産になったわけですが、そこも見ることができ、非常に感激しました。
いずれにしても、アフリカの文化ということであれば、今、ドゴン、ブガンダ王国、アシャンティ王国などの不動産の文化遺産が世界遺産になっているものをご披露しましたが、非常に限られています。繰り返しになりますが、伝統的な踊り、伝統的な歌、それから伝統的な儀式というものが、アフリカの文化遺産の中核です。
ただ、残念ながら、そういうものは持ち運びができなくて、アフリカの人が来て、そういうものを演じて初めて、それを鑑賞できるということですが、今回、寄贈させていただいたのは、そういう儀式に使われる彫刻ということで、ぜひ皆さんも機会があれば、見ていただければと思っております。
それで、私がここで申し上げたいのは、今日、お配りしてある資料の1つに、私が2年ほど前に東京で行った講演の要旨があります。表題は「変動するアフリカとわが国の対応」というものです。
これは2年半前(2014年2月)に行った私の講演の要旨です。私がここで強調したいのは、日本とアフリカの関係が急速に進んでいるということです。特に、この講演の後半でも触れていますが、日本が1993年に始めたTICADが大きな貢献をしています。これは「アフリカ開発のための東京会議」という英語名の略称ですが、ちょうどそのころ、私は外務省で外務審議官でしたし、G7サミットのシェルパをしていたこともあって、私が事務局長を務めました。
当時の細川総理の下で、1993年の10月ですから、もう23年前になります。第1回会合を東京で開いたときのことを、今も鮮明に覚えています。これが日本とアフリカの新しい関係の出発点になったと思います。それがだんだん、前進して、日本とアフリカの関係というと、まずTICADが中核になっていると言えると思います。私はTICADがそれだけ進んだということを嬉しく思っています。
その頃は、皆さんもご承知のように、ちょうど東西冷戦が終わって、ソ連邦は解体しました。それまではアフリカというと、東西冷戦の1つの争いの場、つまり、アメリカとソ連が、お互いアフリカの国を抱き込もうとして働き掛けを行っていた場であったわけです。ところが、東西冷戦が終わった結果として、そういう政治的な理由がなくなったこともあって、これらの国はアフリカから手を引きます。その頃、アフリカではちょうどそのころ民主化の動きが起こりました。
先ほどちょっと申しましたが、1960年代前半、独立直後のアフリカでは民主的な動きが起こりました。残念ながらその後独裁政権、さらには軍事政権が続いていたのですが、1990年代に入って、ちょうど東西冷戦が終わるころに、そういう独裁政権、軍事政権に終止符を打ち、やはり大統領は民主的なプロセスで選ぼうという動きが、いろいろな国から起こり始めました。
一番初めに起こったのは、実はベナンです。いずれにしても、それが広がり、東西冷戦が終わってアメリカとソ連が手を引いていくという中で、日本がTICADを始めて、さらには援助の手を差し伸べて、アフリカの国々と手を組んでいこうという姿勢を示したことは、非常にアフリカで受けました。
TICADは5年に1回、日本で会議を開きます。3年前(2013年)には横浜で開かれ、そのときに、今度はアフリカと日本とで交互に開きましょうということになりました。それからちょうど3年が経った今年(2016年)は8月末にケニアで開かれ、初のアフリカ開催となります。安倍総理が行かれることになって、私は非常に嬉しく思っています。さらに言えば、3年後には日本で開かれるということになります。
アフリカ側の中核を成すのはアフリカ連合(African Union)、略称してAUと呼んでいます。このAUの本部が、先ほどもご披露したエチオピアにつくられております。このAUと組んでTICADを進めるということになりました。私は非常に良かったと思っています。
そういうものを踏まえて、アフリカ全体と日本の関係を深めつつ、やはり個別にアフリカとの関係を深めようという動きが、日本側からも起きています。これはもちろん、アフリカがかねてより強く希望していることであったので、私は非常に嬉しく思っています。
前回のTICADで日本は、いわゆるODA(援助、その中に人づくり協力、経済インフラの支援が入ります)と呼んでおりますが、そういう援助と、それから民間投資というものを組み合わせて、支援していくという約束をしました。そして、日本は約束をしっかり果たしています。
何といっても日本がアフリカで一番評価されるのは、そういう人づくりの点です。安倍総理が前回のTICADの後、ですから、今から言えば2年前(2014年)の1月にアフリカを訪問されて、最後にエチオピアに行かれて、AU本部で基調演説をされました。日本とアフリカの関係の今後の進め方について話をされました。その中で、「ABEイニシアティブ」というのが発表されました。
その「ABE」というのは、もちろん安倍総理の「アベ」をもじっているのですが、正確に言うと「African Business Education Initiative」で、「A」は「African」、「B」は「Business」、「E」が「Education」ということです。
狙いは何かというと、アフリカにおけるビジネス関係の人材を育成するために、修士、さらには博士課程にアフリカの方々を日本にお招きするということです。日本の大学に留学してもらうということで、ABEイニシアティブの全体の規模は1,000人を目標としていますが、今のところ、まだ半分ぐらいです。
この前、私はたまたま北海道に講演で参りました。帯広には帯広畜産大学やJICAの研修センターがあり、JICAが留学生の受け入れの窓口になっています。その両方があるということで、アフリカから畜産関係、農業関係の大学院生(修士課程)さらに博士課程の方が30人ぐらい来て、そういう方と懇談をする機会がありました。そういう人づくりに日本が非常に貢献しているということを、アフリカの国々は非常に評価しています。
アフリカは資源が豊富ですが、まだまだ資源が十分に開発されていません。これからを考えると、アフリカは人口がどんどん伸びます。2000年時点で世界の人口は60億人で、アフリカは10億人でした。2050年時点では、アフリカの人口は倍の20億人になると言われています。このときの「アフリカ」は北アフリカを入れています。
大体、21世紀前半で、アジアの人口は頭打ちです。中国はそのうち頭打ち、インドもいずれ頭打ちです。
今度は21世紀の後半に目を転ずると、アフリカの人口はまた倍になり、20億人から40億人になります。2100年を見ると、世界の人口は全体の人口の伸びも頭打ちになります。まだ先のことですから、人によって見方が違いますが、100億人、場合によっては110億人と言われています。いずれにせよ、そのとき、ほぼ4割の人口はアフリカ人です。
そして、労働人口が21世紀の後半で伸びるのはアフリカだけです。日本は政府がいろいろな手を打っていますが、残念ながらこのままいけば、人口は1億人を切り、8,000万人ぐらいに減っていくということです。その間、アフリカはどんどん伸びていき、労働人口が増えるのもアフリカだけであるということです。
この間、どなたか学者の方が「21世紀はアフリカの世紀」と書かれました。私は、これはなかなか適切だと思いますが、21世紀の後半がアフリカの世紀になるのはもう間違いないと思っております。
そして、アフリカが世界の人口の3割、さらには4割を占めるというときがそのうち来るということです。もちろん、私なんかは、その当時まで生きているわけはないのですが、特に学生の方々は、やはりしっかり、そういう長い目で展望を持って、日本とアフリカの関係を推進するということが必要です。
アフリカの方々も、それを非常に期待していますので、それにしっかり応えていくということが必要です。
先ほど来、アフリカを包括的に捉えて、地球的には西アフリカ、中部アフリカ、東部アフリカ、さらには南部アフリカというように申し上げていますが、実はその中でも、それぞれの国のニュアンスが全然違います。ですから、そういう国別にしっかり見る必要があります。
さらに言うと、その国の中でもいろいろな部族がいます。コートジボワールの中核がバウレ族、これは中部から南部です。これはキリスト教です。バウレの彫刻は、いくつか展示してあります。
それから、北部はイスラーム教徒です。セヌフォという、マリとブルキナファソとの国境の近くの部族ですが、私の好きな彫刻にセヌフォのものがたくさんあります。内戦が長く続きましたが、これは部族対立と宗教対立です。かつてはベディエ大統領、私も仲良くしていましたが、後はバウレ出身のキリスト教徒です。今は、ワタラという北部出身のイスラーム教徒の方が大統領です。その他少数の部族がいくつもあります。そういう細かいニュアンスもしっかりつかんで、それぞれの国別の対応を考えていく必要があると、私は思っています。
そのためには、もちろんアフリカ全体を捉えるのは大変ですから、皆さん方が関心のある地域、さらには関心のある国に焦点を当てて、そこをしっかり勉強されるということが私は必要だと思います。
いずれにせよ、ぜひ頭の中に置いていただきたいのは、21世紀全体をアフリカの世紀というのは、ちょっと私はまだ行き過ぎだと思っていますが、21世紀の後半がアフリカの世紀になるのは、もう間違いありません。これは誰も異存を唱えることができないわけです。
今後の日本の国の在り方から考えると、もちろん従来からの、地理的に近い間の国々との交流はしっかりやらなければいけませんが、距離的には離れているけれども、アフリカに対してもっと理解を深めて、アフリカとの交流を進めていく必要があると私は思っております。
これで私の持ち時間が来たかと思いますが、この後はパネルディスカッションで、いろいろな方がいろいろな話をされます。私も参加させていただきますので、必要に応じてまたご説明させていただければと思います。どうもありがとうございました。

出典:中部大学民族資料博物館「アフリカ資料(松浦コレクション)公開記念シンポジウム報告書」2017年6月所収

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