講演記録

2021年3月16日 国際文化会館 講堂
松浦晃一郎会長・基調講演(抄訳)

 「創立60周年 シンポジウム」

 皆さんこんにちは。対面で大勢の方が、さらにオンラインでも大勢の方が参加いただきうれしく思います。今日はご紹介いただきました通り、アフリカ協会の60年を振り返って、今後の日本・アフリカ関係、そのなかでのアフリカ協会の役割について焦点を当てることになっております。
 私の基調講演ですが、恐縮ですがかなり個人的なことを申しますとアフリカ協会の60周年というのは、私のアフリカとの付き合いがちょうど同じ60年に当たるのです。ともうしますのが、機関誌「アフリカ」2020年冬号に書きましたように私は1959年に外務省に入りアメリカで研修していたのですが、61年に研修が終わってから、西アフリカのガーナに赴任するように言われました。私も1960年が国連総会でアフリカの年になることは知っていたのでそれなりに関心を持ってましたけど、私自身がアフリカに赴任することを予想していなかったので、ワシントンの大使館で内示を受けてからアフリカの勉強を始めました。そのうえで西アフリカのガーナに来たのです。その頃ガーナ大使館はガーナだけで(近くにナイジェリアがあったのですがナイジェリア大使館はナイジェリアだけだったのです)、私が着任するにあたり近隣の国をみんな担当するようにと本省から言われ、全部で10ヵ国でした。英語圏が3ヵ国、フランス語圏が7ヵ国。フランス語圏が多かったのですが、いまから考えますとセネガルはもう独立していましたけど、大使館がなかったのでセネガルも見ていましたし、さらにセネガルの真ん中に川が流れているのですが、そこにガンビアという国がありイギリスの植民地で、のちに独立しましたけど、そのガンビアの動きも見ていましたし、さらにギニアは58年に独立しましたけど、その隣にいまはギニアビサウ共和国と呼んでいますが、ポルトガル植民地のギニアビサウなどがあり、結果的に20歳代前半の私が13ヵ国の国々の政務と文化広報関係を担当することになりました。13ヵ国について勉強するのは大変でした。しかしながら、その結果、公的はもちろん、個人的にもアフリカに大きな関心を持つことができました。
 外務省には40年勤務しました。アフリカにはその後勤務はしませんでしたが、後で座談会の司会をします大島賢三理事長とは一緒に外務省でODAを担当する経済協力局に長い間勤務しましたので、ずっとアフリカとの接点は続いておりました。つまり日本の当時の対アフリカ政策の中核はODAだったものですから、これを担当することになりましたので、アフリカをずっと見ていました。それからさらには、ユネスコの事務局長を10年勤めたのですが、ユネスコは全世界が対象ですけれど、アフリカに重点を置くという方針を打ち出していたこともありますので、この10年間はアフリカと深く関わってきました。それから帰ってきてもう10年になりますが、アフリカ協会との関係もずっと出来ています。
 ですから個人的な活動を申し上げると、まさにこの60年、アフリカの国の動きをじっと見てきて、それを踏まえて昨年の機関誌「アフリカ」冬号に回想を書かせていただきました。
 ユネスコ時代のひとつの目標を申し上げさせていただくと、当時まだ南スーダンがスーダンから独立していませんでしたので、独立国は53ヵ国。私の目標は全部訪問することでした。結局52ヵ国訪問したあと、2度企画しましたがソマリアだけはその都度、治安状況が悪化して行きそびれました。今の段階でいえば南スーダンが独立しましたので54ヵ国中52ヵ国を訪れました。
 今日、三原先生がおいでになられていてうれしいのですけど、先生はよく私に対して訪問国の数で松浦さんをそのうち追い越しますよとおっしゃいました。先生の話を伺うと本当に長い間アフリカに関心を持っていただきました。私が外務省の経済協力局政策課長のときからですから40年以上のお付き合いですけど、政治家としてアフリカに非常に関心を持っていただき、現にアフリカを毎年訪問していただいているのでうれしく思っています。
 さらに言えば、今日はオンラインで参加でしょうか、ケニアナッツの佐藤芳之さん。私が帰国したときは、アフリカ協会は出来たばかりで当時事務局長ですけどその後専務理事になられた福永英二さんと非常に仲良くさせていただきましたが、福永さんは佐藤さんに目をかけていました。佐藤さんは60年代後半にガーナに留学され、その後ケニアで大成功されるのですが、当時はまれな個人の起業家でした。今はマスコミでも報道されるようにいろんな方がアフリカに興味を持って起業されていることをうれしく思っています。
 日本とアフリカとの関係を考えるとき正直申し上げてアフリカ協会でへは、今から考えても、初代会長は東洋レーヨン会長の田代茂樹さんでしたが、このようなその他経済界のトップクラスの方々が理事をされて、福永事務局長が作られたアフリカ協会に全面的に協力しておられたのですね。
 福永さんはご承知かもしれませんが、元フランス大使の古垣鉄郎大使のもとで政務秘書としてパリで勤務されていた方です。その間パリからアフリカを見てその重要性を認識されて、帰られてから、こういう重要な地域と日本の関係を民間レベルでも推進する必要がある、そのためにアフリカ協会を作ろうという音頭を取られて、古垣大使ももちろん協力されましたけど、福永さん自身の人脈を活用して集められた錚々たる方がメンバーに参加されたのです。しかも今から考えると信じがたいのですが、アフリカ協会の機関誌「アフリカ」は当時毎月発行していたのです。さきほど私が冬号に回想録を書いたことを申し上げましたが、今も頑張っているものの、財政的制約・人的制約があり年に4回しか出しておりません。今も全部記録がアフリカ協会に残っていますけどね。当時私もアフリカについて色々書かせていただいたことを覚えています。
 また、当時の理事のリストを拝見しても、田代会長以下錚々たる方がいらっしゃいました。
 当時アフリカの年というのが国連で決まって、多くの独立国が誕生して、日本も政府レベルだけではなく民間レベルでもアフリカに対する関心は非常に高まっていたと思います。ただ、実体的に見れば、先ほどケニアで成功された佐藤さんの例を申し上げましたけど個人で起業されて、企業ベースでもアフリカに進出する、あるいはアフリカに非常に関心を持ってアフリカと接触する、アフリカを訪問する、アフリカとの交流を深める…、ということは国民レベルでみると決して盛り上がってなかったのです。
 これは私の分析ですけど、「アフリカの年」に大挙アフリカの国々が国連に入って発言権を持とうとする、そういうところに日本全体が関心を持った、これは私は良いことだと思いますが、ところがなかなか実体がそれについていなかったのです。幸いアフリカ協会は、みんなが関心を持っている時にできたものですから、経済界のトップクラスも入り資金的にもかなり余裕ある形でした。
 しかしながらガーナで民主的に選ばれたエンクルマ大統領の例ですが、私が入国した61年には独立して既に4年経っており、段々と独裁化が進んでいったのです。当初国民は大変な熱意で大統領を支援していたのですが、そういう国民レベルの支援が次第に下がっていく。その反動でもあったのですが、エンクルマ大統領は自分の支配を強硬なものにするために独裁化を進めたのです。最初は民主的に選ばれても、長年権力の座にいるとだんだんと独裁化してくる、すると国民は離反する、こんどは国民を抑えるためにますます独裁化をしていくという傾向がアフリカに表れてきたのです。実は当時、いくつかの日本企業もアフリカに進出していたのですけど、そういう状況で皆さん殆ど全部引き揚げてしまいました。
 一方政府としてはアフリカの国際的な存在を非常に重視して、政治的重みを考えてアフリカに対するODAを着実に果たしていくという方針を取った訳です。私も一翼を担ったわけですけども、そういう状況の中で一番象徴的だったのが93年の第1回TICADですね。当時私は外務審議官というポストにいて、全体の取りまとめを細川総理のもとで行い、93年の10月に開催し大成功を収めました。ちょうど東西冷戦が89年に終わって最初はソ連(その後ロシア)がアフリカから引き揚げる、アメリカも引き揚げる、フランスは旧植民地を中心に関心を持っていましたけれど、世界的にもアフリカに対する関心が減退していた時に、日本がODA中心ですが、着実にアフリカにしっかりと食い込んでいく、その象徴がTICADでした。その後5年ごとに日本で開いて、私も98年にフランス大使でしたが参加させてもらったのを覚えています。今はご承知のように3年おきに日本とアフリカで開かれることになりました。
 もちろんそのほかの国でも、まず中国が非常に力を入れましたが、中国のみならず韓国・インド・トルコ等々の国もアフリカを重視した形で日本のTICAD的な組織を作っています。しかし、その先駆者は何といっても日本なんですね。それはアフリカの国も評価してくれていましたが、記憶というのはだんだん薄れていくものです。ODAも54ヵ国のうちほとんどの国は日本からの支援を期待していますけど、むしろ人口が多くて経済発展をしている国は何といっても民間投資を必要としているのです。そうすると中国は国営企業が中心ですし、政府の命令でどんどん民間投資をする。ところが日本は、それぞれの企業はそれぞれの判断で投資を考えますから、なかなかリスクをおかして遠いアフリカに出ようとする企業は、アフリカの期待するような形では伸びていかないのです。
 さらに言えばアフリカの国際的存在感は、単に国の数だけでなくて国連を見ればわかりますが、全体としてどんどん高まっています、ですから一つの例で申し上げれば98年から99年にかけて、私がユネスコ事務局長に立候補したとき票集めで一番重要だったのはアフリカでした。私のケースだけでなくて、ほかの国でも国際的な選挙ではアフリカの票は非常に需要なのです。ですからアフリカの政治的発言はますます高まっていく、また経済的な重要性も、資源もあるためだんだん高まってきたのです。
 日本ではあまり注目されませんが、アフリカの文化は非常に伝統的なもので、さかのぼれば私ども人間はアフリカで700万年前に生まれ、直接の先祖のホモサピエンスは20万年前にアフリカで生まれ、その後アフリカを脱出して世界各地に散らばった。アフリカはいわば我々の祖先・我々の出発地点なのです。そういう文化を持った地域ですが、ただ気候風土は厳しいし、いろんな感染病はあるし、いろんな意味でアフリカの悪いイメージが確立した。奴隷時代西洋諸国ではアフリカを暗黒大陸と決めつけて自分たちの奴隷貿易さらには植民地時代を正当化したのです。
 暗黒大陸といえば、私も最初アフリカに行けと言われたときはまさにそのイメージを持ってました。それが全く間違っているということを現地に赴任してからすぐ分かりましたけど、アフリカを訪問していない方はなかなかそんなイメージから抜けきらないところがあるのですね。アフリカの文化はしっかりとした底力があるし、ただ残念なのが気候風土でユネスコ的に言う歴史的な建造物などが非常に少ない、むしろ無形文化遺産の踊りとか儀式というそのようなものが豊かなのです。ですからそのようなものにもっと注目していく必要があると思っております。
 アフリカ協会の役割というのは、60年前に協会ができたときは皆さんがしっかり応援してくださったのですが、今の方がアフリカ協会の役割はもっと高まって役に立てると思っています。
 しかし残念ながら皆さんにはしっかり支援していただいているのですが、まだまだアフリカ協会の存在や価値が日本では浸透していなくて、もっと個人会員・法人会員として入っていただき、アフリカ協会を活用していただきたいと思います。もちろんそれは関心を持っていただきたいレベルから言うとまだまだギャップがあるのです。これからアフリカ協会がどうやって日本とアフリカとの交流を深めて貢献できるかということを考えていただきたいのです。その中でも外務省の大使館が現地で34ヵ国あるということですが、アフリカ協会としてはそれだけの大使館を抱えている外務省とも緊密に連携して、民間レベルの交流を日本とアフリカとしっかりと深めてゆくことに頑張っていきたいと思っています。

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